死老頭魯曼的嚧言感想

反正人也死了,稱呼他為死老頭只不過是陳述事實而不是人身攻擊

プログラムのタイプの差異化の意味を解明する糸口:
1.現代社会は、コミュニケーションのための「個人的動機」を色んな形式で提供する。その形式をなぞっているのは「差異化」である

2.動機とは、「コミュニケーションにおける個人への『帰責』をいかに扱えばよいか」ということ。

3.動機についてのコミュニケーションは、それが仮定している因果関係を究明し、真であることを証明することは実際できない。--->けれど受け入れなければならない。

つまり、行為(=コミュニケーションすること)の「根拠」=動機(?)は、もちろん、個人に関連あり、しかも「社会的コミュニケーションの人造物」である。

こう考えていいのかな。

Aはある店で買った品物は、Bが別の店で買った品物より1000円高かった。

Bは「他の店で同じものを買ったよ!1000円安かった」と言い。

「なぜ早く言わなかった?」という友Aの責めに対して、

Bは「そんなの知らなかったよ!」と答え、

<{Aが「高い」もの買ってしまった}責任は両者のコミュニケーションにおいて、究明しようとした>

Aは「自分が損した」という考えでBと口論(コミュニケーション)した。-->2.の個人への『帰責』をいかに扱う

しかし、その動機=「自分が損した」という考えは、Bの最初の言葉がなければ発生しない。--->Bとの会話がなければ生まれない動機--->社会的コミュニケーションの人造物である。

そして、このような人造物によって、後続のコミュニケーション(--->けんか(?)あるいは他の形式のもの、予測できない)が生成する。

でも、おそらく最後はこうなるだろう
A:甲斐性のない友達!
B:なんでも言ってろ!
↑↑
本当に「甲斐性のない友達」であるかどうか、Aが「どのように考えようも、そうなのである」

頭の部分は最初すごく難解である。日常会話に感謝します。
その後の各プログラム領域の説明はわかりやすく読みました。
しかし、最後には、「ルーマンによると、何でもかんでも構築によって作られた幻想ですか」という予想できる疑問に対して、ルーマンの答えがちょっと分かりにくい。

「手の届くリアリティ」があるという前提は必要だが、それは信じられる記述ではない。また、その「成功」(P113)とは何の成功だろう。

リアリティがこの後だから、こう考えてよいのかな。(推測ですが....)

蜃気楼というものは光の異常屈折現象のひとつ。---->本当に楼とかなかったが、「人間の構築によって」はまぐりが気を吐いて楼閣を描くことを解釈した。しかしこれはただの自己幻覚ですか?違う、実際は本当に遠い町が存在し、それの投影である。

その遠い町の存在を確認するため、「自己言及と他者言及とを、厳格なシステム固有の条件の下に調和させ、維持していく」ということをするでしょうか。

マスメディア・システムの例が思いづかなくて、すみませんでした。